「アサッテの人」

 忙しければ忙しいほど、本屋さんに行きたくなり、本が読みたくなる。秋から数册読了。
その中で一番余韻アサッテの人の残る本が「アサッテの人」です。
第50回群像新人賞受賞、さらに第137回芥川賞受賞作品。
でも全く食指は動かなかったのに、10月末のあがた森魚ライブでのMCが印象に残ったのが読むきっかけでした。
あがたさんは、そんなことなんでもないんだけど。っという風な「おすまし顔」で、作者諏訪哲史さんが、影響を受けた本(愛読書だったかもしれないです。)にモリオ・アガタ 1972~1989を揚げていることや、昨夜名古屋ライブに来てくれましたが、種村季弘さんが師匠だそう。などと説明されました。
まっ、ぼくも未だ読んでないんだけど、よかったら読んで下さい。と言いましたが、あがたさん、不快な事なら絶対紹介なんかしないと思うので、もしかしたらかなり喜んでいるのでは?って思いました。

 なるほど本は一目で外見から気に入りました。私の好きな緑色ですっきりしていて正面に「スワンベリ」のエッチングです。
お話は、作者が自分の叔父さんについて書いた話。叔父さんは蒸発同然。
それなのに、その後を心配しないのがちょっと不思議でした。
叔父さんは妙な口癖がある。突然なんの意味なく「ポンパ!」と叫ぶのだ。他にも何種類かあるが意味はない。
叔父さんも、意図的に言っているわけじゃない。
これがこの本の「売り」なわけだが、構成も面白く、読み進むと、とても奥深い悲しみに行きつくのだ。
 叔父さんは言語障害の吃音癖があって長年悩まされてきたのに、あるとき全快すると、自ら「吃音的なもの」を求めようとする。それが「アサッテ」誕生の瞬間ではないかと主人公は考察する。
「アサッテ」とは定形にはまらないカタチで生きることだと思う。
矛盾しているが、「吃音」という足かせがあったとき叔父さんは、世界と均衡を持てたのに、吃音がなくなると世界の律にとらわれ窒息するような苦しみを味わうことになる。
で、『自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して圧倒的に無関係な位置にいること。』と、叔父さんは日記に記す。
その体現が「ポンパ」だったり、最後の付録なんですね。
硬質な文体は、私には懐かしさが漂いとても読みやすい。
『もとより、いまの私に申し開きの術などない。』などという何気ない言葉遣いが、尾崎翠稲垣足穂の文章の香りがするからだ。
あがたさんにも作中の「洗濯」に曲をつけて唄っていただきたいなあ
一気に読了しましたが、最後の最後の付録には涙目に。
もっと若いとき読んだら号泣したかもしれない。
 ちょっと「アサッテの人」は、どこにでもいるし、誰でもなりえるのに、アサッテの人叔父さんは自分だけ悲しい人と思い込んだのでしょうか。